昭和46年04月08日 朝の御理解
御神訓 一、「神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じこと。」
神はわが本体の親ぞ。ここらはみなさん分かっておられると致します。天地の親神様と、生神金光大神と、天地の親神様と呼ばせて頂く。説明を致しますと、ここは非常に、天地の親であるぞ、また子であるぞと。いわゆる天地の子としての訳があるというか、それは説明は沢山いるでしょうけれども。けれども私どもはとにかく天地の親神様と、理屈抜きにして頂いておる。お話を聞いて分かると同時に、体験の上でも成程親じゃなあ、親神様じゃなあというものを、いつの場合でも感じる。
ある場合には母親の愛情を以て、ある場合には厳しい父親の愛情を以て、私どもを育てて下さる。また私どもの心をいよいよ育てて下さる。そこらのことは分かっておられます。信心は親に孝行するも同じ事と言う所に焦点を置いてお話しさせて頂きたいと思います。ここまでは分かっているですね、金光様の御信心を暫らくでもしておる者ならば。私ども拝まして頂いておる金光大神、御取次によって拝まして頂いておる天地の親神様、もう体験の上でも、成程親だなと。
親神様と思われるおかげを頂いておるのでございますから、そこまで分かっただけではいかんのです。ですから信心は親に孝行するも同じ事という、その親神様に私共はね、孝行するような心、言うならば親神様に喜んで頂けるような信心とはどういう信心かと分からせて頂かにゃいかん。ですから今日は後半のところ、前半の所は皆さん分かっておるです。「神はわが本体の親である」大天地に対する小天地、親神様に対する氏子である。そこんところ私どもは体験によって、それを感じ取らせて頂いておる。
ここは大体理論的に説くならば、大変なお話になると思うのですけどね。まあそこは分かっておるとしてです、その神様を頂いて信心させて頂いておるものは、その神様に対して、例えば孝子が親に仕える様に信心を進めて行くと言う事。天地の親神様の御心に適うというか、神様のお喜び頂ける様な信心を頂くと言う事。「信心は親に孝行するも同じこと」ですから信心は親から無理を言うて、おかげをもらうと言う事だとは仰っていない訳です。「親に孝行するも同じこと」と仰る。
それにどう言う事になっておるでしょうか。人間の知恵、力で出来ないところを、ご無理を申し上げ、おかげを頂いて行くことが、信心のような風に思うておるような向きも沢山あろうかと思う。ですから、もうここのところで信心が決まるのです。ですから本当の信心とか真の信心とか申しますけど、成程親だから子だから、子から親に甘えるように、甘えても良かろうけれども、甘えておったばかりじゃ出来ん。
少しは親の手伝いも出来るようになり、言うならば、親も安心して頂ける良い子にならして頂くという風に育って行かなかったら、これは良い信心とは言えない訳です。それに十年経っても、二十年経っても、いついつまでも神様ちゃご無理申し上げ、親には心配の掛け通しといった風な信心ではねどうかと思う。それは願うことは一つ願わなければいけません。昨夜も総代会がございましたから、総代さん方に聞いて頂いたことですけどね。まあこれは私から見れば。
うちの総代さん方はもう最高の総代さんであろうと思う。信心もお参りも出来る。御用も出来る。しかも毎日教会、合楽教会全体のことを御取次頂いて願うて行かれる。どことどう私がみなさんにこれ以上のことを求められんように思うけど、けど神様の目からご覧になったらどうであろうか。そのためにはあなた方の信心をどうでも今以上大きく求めなければいけません。もう本当言うたら、合楽教会の立ち行きと言う事が、ご比礼と言う事を総代として一生懸命言われたら。
願われたら、銘々の自分自身のことくらいのことは、その中に含まれておるはずである。そのことを願っておられる。毎日願うておられるけれども、もっともっと切実なもの、真剣なもの、大きな祈りにして行くところを、これから努めて行って頂きたいと言った様な話しをしたことでした。勿論それは合楽教会だけのことではない、もっともっと実を言うたら、切実な祈りになって行かなければならんこと。
ですけども切実に願われることがですね、初めの間は自分のことは切実に願う、どうぞどうぞとそれは切実である。自分の家のこと、自分に直接関係のあることは切実に願う。けど本気で教会全体のことを信者全体のことをです、これは総代に限ったことではないですよ。お互いの信心が進んで参りましたら、それを祈らなければ願わなければおられなくなって、育ってくる。
私はそういう信心がね、神様に喜んで頂く信心だと思う。どうでしょうか、今自分が一生懸命願っていることは、自分のことばかりと言うなら、信心の成長しよらん証拠。それではです、成程神はわが本体の親ぞということが分かっておってもです、本気でその親に喜んでもらおうと言う様な心が欠けておることを知らなければいけません。神様に親不孝しようとは思わん。神様を悲しませようとは思わない。喜んでもらいたいと思うけども、それがどれ程切実になってきておるかと言う事です。
自分のことを一生懸命願うことが信心のように思うておるならです、それはちょっと考えを変えなければいけない。願うことも良かろうと一生懸命健康のこと願うも良かろう。商売繁盛願うも良かろうけれども、それはどこまでもより親に喜んでもらいたい、より親孝行がしたい、より親神様に安心してもらいたいからの願いでなからなければいけないということです。ところがちょこっとばかり、おかげ頂くともうそれに腰を掛ける。思うようにちょっとおかげを頂くと、もうそれで信心がゆるんでしまう。
これではお道の信心ぶりにはならない。おかげを頂けば頂く程、頂いたおかげ、頂いた力を以てです、お役に立たせて頂こう、神様に喜んで頂こう、神様の心にいよいよ添わせて頂こうと言う事になってこなければ、信心は親に孝行するも同じことと言う事にはならんのです。偉大なおかげとでも申しましょうか、偉大なお徳とでも申しましょうか、その偉大なお徳、偉大なおかげを頂いている人達を見てご覧なさいませ。
絶対自分のことなどは願いよらんという程しの信心に進んでおられます。そして自分のことは願い以上に、それこそ夢にも思わんようなおかげを受けておられます。ですからどうぞそこで信心がね、成長して行くことを願わなければいけない。親に喜んでもらう信心、親神様に喜んで頂けるような信心とはどういう信心であろうか。それをいつも心に掛けさせて頂く、そういう心掛けが必要であります。
昨夜、総代会が終わりましてから、例によって久富さんの奉仕を受けておりました。そしたら奉仕をさせて頂きながら、今日は御祈念中にこういうお知らせを頂きました。まあ、夢とも御心眼ともつかんようなお知らせでしたがと言うて、足を揉んで下さりながら話されるんです。御心眼でしょうねえ。一生懸命鰻を食べておるというのです。ところがその鰻がえらい小骨が多かった。
それから小骨を選って見よったら、鰻じゃなくて蛇じゃった。それでもやはり頂いておられたけれども、これはどうも平口かもしれんちゅうてから、お箸でこうやって引っ繰り返して、頭を見たところが、頭が三角になっとった。いわゆる平口であったとこう言うのである。私はね、鰻というものはやはり誰だって美味しいものである。鰻の蒲焼きと言えば珍味の中でしょうね。鰻を頂くと言う事は、私はおかげを頂くと言う事だと思うです。誰でもこれを望んでいることであり、願っていることである。
金光様の御信心ちゃ有難い、本当に有難いおかげを受ける。どうしても少し早く御信心を、知らなかったじゃろうかと思う程しに、いわゆる「願う氏子におかげを授け。」と言うて仰る。そのおかげを受けるわけです。心も生き生きと浮き浮きとしてくる。信心させて頂きよると顔色が良くなる。人相まで変わってくる。これは鰻のおかげを頂いた。ところが、段々お話を頂いて、信心を頂いて参りますとです、みすみすそれは毒なもの。例えば毒平口です。
もう例えば信心しよっても、普通の信心じゃ受けられまいと思うような場合であっても、毒を変じて薬にして行ける程しの頂き方が出来るようになる。その時が信心がヘトヘトというかの時です。人の難儀を自分が引き受けてからでも、信心を進めて行こうと言う事。だからそれは間違うたら命取りになるそれは程しの猛毒を持っておる。けれどもそれが変じて薬になる。いわゆるアルコール漬けにしてあります。平口の焼酎漬けにしてあります。これなんか大変な精気の薬と言われております。
元気が出る。それは事実。本当に元気が出るものらしいですね。平口のアルコール漬けじゃなくても、乾かしたのを少しばっかり、あれは大変美味しいそうですよ。鱈みたいに美味しいそうです。けどもあまり食べると逆上せるそうです。そげん効くちゅう。ちょこっとばかり頂くと、例えば運動会なら運動会に出る子供に、このくらいばかり食べさせると、その日はそうに元気が、きつがらんという程しに効くものらしいですけれども。信心で言う平口もです。
それを有難く、本当に有難く頂けるようになったら、いよいよ力が付いてくる。というように、信心がそのように過程を追うて進んで行かなければいけん。そこにあれもおかげそれもおかげと、一切をおかげとして頂けるようになったら、一人前の信者じゃと仰せられる信者にお取り立てを願わにゃいけん。そういう頂いた力を以て、世の中のことを願い、人のことを願い、まあ昨日総代さん達に申しましたことならば、そういう力を以て願っておられん訳じゃないけれども。
より一層教会の発展を、ご比礼を願わなければならんと申しました訳であります。信心は親に孝行するも同じことと言う事が少しづつ分かって来たでしょう。だからね本気で今日も神様に喜んで頂くような信心をさせて頂こうと思わにゃいけんです。その手始めにです、こうして教えを頂かしてもらう教えをね、本気で行ずることだと思う。これも昨夜、総代さん達に聞いて頂いたのですけども。
昨日は一日元日の心、大晦日の心との御理解でした。それを大変今まで頂いたことのない、深い意味の元日の心、大晦日の心でしたが、まあ精進させて頂く手始めとしてね、本当に元日の心、大晦日の心といったような、そのことを心に念じさせて頂きながら、いわゆる心掛けさせて頂きながら、昨日一日を過ごさせて頂きました。昨日は、ちょっとお客様がありましたものですから、テレビ室でお神酒をその方に上げました。私も総代会があとに控えておりましたから。
少し控えながら頂いたんですけども、まあ頂いて帰られた後でです、まあ普通ならば、家内に「おいおい、後で片付けておけ」と言うところでしょうけれども、先ず頂いたものを炊事場に持って行って、まあ洗い槽の中にきれいに入れさせて頂いた。それからテレビ室の散らかっておるところを掃除して、まあ片付けさせて頂いた。今夜は大晦日明日が元日、ですから明日起きた時に散らかっとったんじゃあ元日の気分が悪い。と言って家内に「コラコラ」と言うて片付けさせれば出来んことはないけれども。
今日は大晦日で、家内も一生懸命働いてきつくもあろう、疲れてもおろうから、これは私がさせて頂くと、本当に大晦日の思いでね、片付けさせて頂きよる中に、私の心の中に思いも掛けない心が起こった。と言うのは、それこそ有難うなってきた。教えを行ずることはね、それが値打ちなんです。これはもうこの調子で行けば、明日目が覚めた時は、元日のような心で目が覚めるなと頂けるところまで有難うなってきた。
だからね綺麗好きの人がキチッとする、綺麗に片付けるのとは違う。今朝からの御教えを頂いておるから、神様がああせよこうせよと仰るからそうするのである。大体言うなら私がろくそな人間でありましても、やはり大晦日の思いで片付けさせて頂いて、普通ではしない御膳を勝手まで運んだり、それを流しの流し槽の中に入れたり、拭いたりさせて頂いているうちに、私の心の中に有難いものが湧いてきた。
親の言うことを聞くから、親の喜びが私の心に生きてくるわけなのですよ。親の言うことを聞くから親が喜ぶ。その親の喜ぶ心が、私の心に反映してくるわけです。ですから、親孝行の信心とは難しいことではないでしょうが。「信心する者はよう心掛けておくが良い」私は信心する者はよう心掛けておかねばいけんと。教えを本気で守らしてもらうようにさしてもらうと言う事。
「神はわが本体の親ぞ」まあこれは皆さんが理屈抜きにして、それは理屈言えば沢山な論理を立てることが出来るでしょうけれども、皆様はそこは抜きにして、成程親様じゃな、親神様じゃなと体験持っておられるから、そこのところは説明申しませんでしたが、信心は親に孝行するも同じことというところをです、今日は聞いて頂いた。親に孝行するも同じこと。信心が進まなければならん。
久富さんが頂かれた、鰻が蛇になり、蛇が平口になった。というところを皆さんに聞いて頂きましたね。そして親孝行とは、親孝行の手始めとして、親の言うことを聞こうと思うたらすぐ聞けれることをです、実行することなんです。そこにはね、親孝行の喜びというか、楽しみというか、必ず与えられる。と言う事を私は昨夜のささやかな体験を聞いて頂いた訳なのです。
どうぞ一つ本気で、神様に喜んで頂く信心を頂こう、身に付けよう願い事は一杯ある、だからその一杯あることを、繰り返し繰り返し願うことも大変有難いこと。また願わねば神様も喜んで下さらないこと。けれどもそれだけではいけない。その願いが成就の暁には、いやそう願わして頂いとることも、世のお役に立ちたいばっかり、神様に喜んで頂きたいばっかりの願いが、願いになってこなければならないと言う事を申しましたですね。
どうぞ。